一人暮らし山崎のアルバイト指南

委員オーキャン

課題が出るたびに、スタイロやスチレンボードを買い込み切り分け、残り少ないスチノリを買い足さなきゃと考えながら、何度も上下させ振り絞り、貼り合わせる。課題がひと段落するとCADとイラストレーターの支払いが待っている。

とかく出費の絶えないこの学科には制作費のためにバイトをする生徒が多数いる。

しかし絶対にオスススメしないバイトがある。

これはそんな手を出してはいけないバイトを身をもって体験した筆者の体験記である。

春休みのさなか、同年代は旅行のため各地に散っているというのに、自分は先ほど知り合った父親程の年齢の男に、狭い軽自動車の中でコロナのワクチンを打った事について説教されているのは何故なのだろうか。

ナビとシフトレバーの間には米米クラブのCDが何枚か並んでいた。

冷えた副流煙で満たされた軽自動車の助手席に閉じ込められる数週間前、念願の一人暮らしが実現し多摩美術大学の近くに引っ越して来たわけなのだが、親から渡された初期費用と持ち合わせていた現金は、ものの数週間で全て調味料に変化していた。コスパが良いとされる自炊は調味料などが揃っている前提条件の上に成り立っていることを知らなかった。

使用しているゆうちょ銀行の貸付機能に甘えた結果、口座にはマイナスが生じていて、空腹と焦燥に耐えかねた私はバイトをすることを決心する。が、これでもかという程怠惰で飽き性な私には同じ仕事を長期間続ける事は不可能だとわかっていたし、面接やら何やらが疎ましく早急にお金が必要だった為、短期のアルバイトをしようと考える。さらに日雇い日払いの単発をこなせば明日にでもこの小規模な飢饉は解決すると確信し、単発の求人アプリをダウンロードした。

そんな突発的で軽佻浮薄な考えが全ての元凶だとは知らずに、求人アプリにぽちぽち個人情報を入力していった。

数日後の昼下がり、採用通知が振動するスマートフォンに届けられた。採用された単発バイトは、最寄りから数駅の淵野辺駅にあるアパートでのリサイクル品回収で、時給は千三百円、十時集合で一時間の休憩を挟み四時までの作業が予定されていた。

とりあえず職にありつけ一安心した私は、この間偶然調味料のジャングルから発見した古のパスタの残りを茹で、炒めたニンニクを入れてケチャップで味付けしたギリギリ料理と呼べるなにかを、こんな自炊の最低ラインのような食生活から一刻も早く脱してやるという思いで啜った。

念願の単発バイト前日。もう一度だけバイトの内容を確認しておこうとサイトに目を通していると、読み落としていた当日の服装についての詳しい文言に戸惑った。

「服装 作業服(ジーパン・カラーパンツは控えてください)」‥‥‥作業服?‥‥‥‥

目下単発はおろか、まともなバイト経験もない私が作業服など持っているはずがない、そしてそれを買う金も当然ない。しかし人様の家に上がることが予想されるこの仕事に自分が持ち合わせている服で挑んでいいはずがない‥‥。急いで近くの作業服の売っていそうな店を調べる。しかしそう都合よく物事はいかず、近辺には見当たらない上にとっくに営業時間を過ぎていた。

明日の朝バイトの集合時間より先にどこかの店に行き購入するほかに手段はなさそうで、暗澹たる思いで床に着いた。

バイト当日。幸いにも淵野辺駅から徒歩で行ける距離に作業服を扱っている店があったので、目的の駅で下車した私は、眠い目を擦りながら道中のコンビニのATMでマイナスになった口座にさらに追い打ちをかけるかのように数千円を引き下ろし、朝食を買い、国道沿いにいあるその作業服屋に行き作業服を買った。

全ての準備を終えた私は満を持して、掲載されている住所へと歩を進めた。

目的のアパートは駅から徒歩数分のところにあった。朝食のおにぎりを咀嚼しながら改装中のパチンコ屋の横道に入り、しばらく直進し右折する。いつから閉ざされているのかわからないコインランドリーを通り過ぎ、突如出現する如何わしいホテルを過ぎれば、目的の住所につく。

掲載されている住所に到着すると、それらしきアパートやマンションが複数ひしめき合っていて、目的の建物がどれかわからなかった。またそれなりの余裕をもって到着したためか、それらしき社員や派遣の人間も見当たらない。建物の前で時折往来する通行人に気を散らしながら、掲載されている住所をスマホでもう一度調べ直すと、地図上のよくわからない曖昧な位置にピンが突き刺さる。

仕方なくそれらの建物の前で、どうするのが正解なのか分からず暫くフラフラしていると、作業服に身を包んだ男に話しかけられた。

身長は低く、年季の入った作業服を着込んでいる。〇〇の派遣の人ですか?

派遣サイトの名前を出してきた為、この男性と今日一緒に働くのだと分かった。

この派遣の男を仮にも「K」とする。

初対面の人間同士のテンプレートのような会話がしばらく行き来し、集合時間を迎えた。

がしかし、なかなか社員は到着しない。お互いがスマホをチラチラ確認しながら投げかけと、答えで即終了する上滑り会話が数十分続いた後、Kが流石におかしいと思ったのか、サイトに書いてある電話番号に掛けてくれた。

電話を終えたKから、全社員が満遍なく遅れていて到着はまだまだ先になる事を伝えられ、到着まで道の真ん中に突っ立ているわけにもいかず、ホテルと道を挟んで位置する駐車場の奥の方に移動した。

洗濯物を取り込む女性がベランダから我々を見下ろしている。

駐車場にどさりと荷物を置き、所憚らずタバコに火をつけたKは、自分にこの仕事は初めてなのか歳はいくつなのか、普段は何をしているのかなど、続け様に尋ねてきた。

質問にはどれも完璧に答えたはずなのだが、Kはどこか上の空で聞いてるのかいないのかよく分からなかった。

煙を吐き終わったKが唐突に、履いてるのは安全靴なのか尋ねてきて、普通の運動靴ですと答えると、居酒屋の裏道の掃除をした時の話をし始めた。

掃除の邪魔だったので横たわるブルーシートをどかすと、猫ほどの大きさのネズミがアスファルトを滑るように飛び出し、足先に噛みついてきたのだとか。しかし安全靴のつま先の鉄板のおかげで歯が足に到達することはなかったのだと語る。

「噛みつかれたら終わりですよ、だからほら」

安全靴の先を拳で叩き、乾いた鉄の音を響かせる。

ネズミの話に誘発されて、Kのこれまでに経験してきた単発のバイトについて、色々と話し始めた。

数個のオーディオ機器を集めただけで終了し、満額貰えた話や、誰も住んでいない部屋の片付けをしていると押入れから百万円と書かれた茶封筒が出てきて中身を確認すると実際に百万円が入っており社員と少し分け合った話、派遣を虫けらのように扱う会社の話、家賃を滞納した者の部屋の掃除は、基本夜逃げで家具などが何もない為楽だという話などなど聞き応え満点の話がぽんぽん出てきた。

どれも別世界の話で面白く、聞き入っていると駐車場に一台のトラックが乗り込んできた。

運転席から顔を覗かせ、〇〇派遣の方ですかぁ?とK同様尋ねてきた男の中途半端なロン毛は、頭頂部の地毛部分は黒色、他は荒んだ金色をしており、形といい色の配置といい下品な富士山の様でついつい見入ってしまった。

隣にいたKがいつもの手順かのように確認のやり取りを済ませる。

トラックと入れ違いで駐車場から出た我々は連立するアパート群の前で、軍手をはめ作業の準備を始めた。すると駐車を終えた先ほどの社員が後ろからやって来て、Kが数十分前駐車場で

「このエレベーターのない古いアパートじゃないといいんっすけどね」

と笑っていたアパートになんの躊躇もせずに入っていった。

社員の後方で我々は思わず顔を合わせた。

不動産屋かアパートの持ち主に電話をして、キーボックスから取り出した鍵をしっかり握った社員に続き、螺旋階段を登る。アパートから剥き出しになっていて、赤錆に侵され、塗装は剥げ落ち、溶接部分はボロボロと脆くなっている螺旋階段は到底人間の体重を支えるのに適しているとは思えなかった。おまけに兎角急で狭かった。

頼むから社員よ次の階で止まってくれと願っていると、最上階の五階に到着した。

一階から四階までは奥に向かい廊下が伸びていて、小さい部屋が敷き詰められているレイアウトなのだが、螺旋階段を登って到達した五階は階下とは違う作りになっているという事が突如眼前に現れた玄関が主張していた。

最上階が大きい一つの生活スペースになっているというのはアパートなどではよくあることで、大抵は大家が住んでいる。きっとここも例に漏れず大家の部屋なのだろう。

ドアの前には打ち捨てられた無数の植木やプランターがあり、陽を遮る建物が周りにはないというのに大家の部屋の玄関が大きな影を垂らし、どのプランターにある植物もグダリと死を匂わせ項垂れている。足元のコンクリートの地面には水捌けが悪いのかびっしりと苔が自生していて、上を歩こうとすると足が沈み、水分が溢れ出てくる。

無数の死と、周りを取り巻く、高所の澄んだ空気と景色のギャップに気を取られていると、玄関の鍵がガチャリと開く音がして視線を前方の灰色のドアに戻す。

K越しに、玄関が開くのが見える。薄暗い部屋に三月後半の空気と日光が滑り込む。

五階を占拠しているこの大家の部屋は一言で言うと、死んでいた。

玄関にある靴箱の上にはテトリスのように物がぎっしりと積み重ねられ、その上に優しく覆い被さるように、埃が満遍なく安臥している。本来の採光の役割を完全に不能にされている窓がうっすらとその奥に伺える。

いちばん手前にある部屋は玄関からでは中が見えなかったが、色褪せ、ボロボロになった襖が全開になっており、そこから服や毛布、布団などが雪崩のように廊下に溢れていた。

玄関の右側から部屋の奥に伸びてる廊下には、真ん中に人が通れるだけのスペースを残して様々な物が置いてあったり壁に立て掛けてあり、その様子は獣が草花を掻き分け行き来するうちに出来上がった獣道を連想させた。また累積した埃と砂利の上の幾重にもなった靴跡がこの家に人が何度も土足で出入りしてる事を示唆していた。

視線で廊下をなぞっていると廊下中腹あたりの天井から何かが垂れ下がっていることに気がついた。目が暗がりになかなか慣れず、暫く仄暗い廊下の奥を注視していると、その何かが天井そのものである事がわかった。痛々しく剥がれ露わになっている屋根裏は、梁などが行き来し廊下よりも一層暗く、魑魅魍魎の住処の様な凝視してはいけない雰囲気を醸し出していた。

いつからここには人が住んでいないんだ、いやまずここの住人はどうなった?‥‥

Kが振り返り、「これはやばいっすよ‥‥」と囁く。この部屋のもの全てが我々の掃除の対象だなんて考えてもいない私は、単なる部屋の感想だと捉え、確かにやばいな、などと安直な意見を抱く。

ところが一緒に部屋に入った社員の男が

「それじゃ、まずは他のトラックが到着するまで、鉄を集めていてください。」

と指示を出す。

玄関で告げられた言葉にあった「まずは」という言葉に動揺する。

先程駐車場でKが話していたような、簡単な業務ではないことがぼんやりとわかった。

社員の適当さと、この部屋の様相からこれはまともな仕事ではないと全身で感じ始めた。まず社員が全員遅刻とは何事だ。そしてこの部屋、この量のものをこれから一階まで運び出して時給が千三百円?どう考えても割に合わない、他に探せばもっと好条件で身の安全の保証されている仕事があるはずだ。

しかし同時にこの屋敷に踏み込んでいきたいという欲求も猛烈に湧き上がって来ていることに気がついた。見ず知らずの他人の部屋に土足で入り込んで詮索する背徳を心の底では欲していた。また、家に帰ったとしても膨らんだ債務の懸念と調味料しか部屋にはない。半ば自暴自棄にも近い状態で、廊下の奥に消えていった社員に続いた。

玄関からでは中が見えなかった一番手前の、布団が廊下に雪崩れている部屋を通り過ぎがてら、ちらりと観察する。壁一面に色褪せた、いつの物なのかわからないポスターや新聞の切り抜きが貼られていて、部屋左奥にある押入れをピークに衣類や布団、毛布などによる小さい山が形成されていた。当然のように部屋の床が一切見えなかった。

その部屋を通り過ぎ、天井が垂れ下がっている箇所まで廊下を前進すると左手に脱衣所があった。がしかし脱衣できるスペースなどはなく、ここも今まで同様ダンボールや小さい棚などによって本来の役割は機能していなかった。

ひどく立て付けの悪いドアを抜けると、開けた部屋に到着した。左手にはキッチンらしき場所があり、右側には襖で仕切ることのできる大きな畳の部屋が続いていた。手前の畳の部屋には押し入れから出されたであろう物が散乱していて全く足の踏み場がなかったが、そのおかげで中はスッキリしており、Kに釣られて自分もそこに荷物を置く。

「これはマジでやばいっすよ。」

Kがいつの間にか頭に巻いたタオルをキツく締め上げ、目を見開いて囁いた。

早速作業に取り掛かっているKを片目に、奥の部屋に目をやると、今いる部屋とその奥の畳の部屋さらに大きな窓の向こう側にある駐車場が見えた。

猫の額から猫の額に移動することしかできない、どこにいても溢れかえった物に圧迫されるこの部屋から見るアパート裏の駐車場は、ひたすらに広く雄大で清々しかった。

駐車場に嫉妬したのはこれが初めてだった。

その大きな窓の手前には、室内だというのに無数の植木が何故か集められていて、大きい歪な円を形成していた。

その植物のどれもが玄関前のそれと同じく、枯れ果てていて、今はもはや植えられていると言うよりかは杜撰な埋葬に見える。

廃れた部屋に散乱する、持ち主を亡くした物たちに囲まれ、早くも抱き始めた諦念と共に部屋を見渡していると、台所の奥にもう一つ部屋がある事に気がついた。

確認ができていない最後の部屋は、角度的に全貌は掴めず、半開きになったドアに切り取られた細長い部屋の断片だけが見え、好奇心を煽られた私はあくまで仕事の一環という雰囲気を出しながらその部屋に向かった。

埃を被った食器が入っている埃を被った食器棚を通り過ぎ、半開きになったドアを開けると、光に満たされた小綺麗な洋室が現れた。部屋にある物と言えば、電子ピアノとその上の小物、棚ぐらいで、天井は剥がれていないし、枯れ果てた植物もダンボールの山も布団の雪崩も勿論なかった。

先程までの混雑した和室が嘘であったかの様に思えるほど整理整頓された静謐な部屋に立っていると、ついさっきまで人が生活していた様な生々しさから、持ち主が帰ってきてしまうのではないかと言う緊張と背徳を感じた。勝手に土足で上がり込んでいる侵入者を、持ち主は床に張り倒し、激しく叱責するだろうか、はたまた私を見て逃げ出し通報するだろうか。

そんなことを考えながら部屋を視姦していると、手前の部屋で作業を開始しているであろう同僚の物音も気配も感じないことに気がついた。

家の深奥に位置するこの部屋にはそれらの音が届かないというのは頭ではわかるのだが、どうしても、この抜け殻のような部屋に置いて行かれたのではないかという不安と恐怖が頭をよぎり、急いで部屋を出てすでに始まっていたKと社員の鉄屑集めに参加した。

物が溢れかえり退廃した家の奥に、新居同然の綺麗な小部屋が存在することに、不穏を孕んだ違和を感じ、これ以降再び部屋に入ることはなかった。

それからというもの家中を駆け巡り、鉄という鉄を集めては段ボールに入れていった。

ハンガーだったりクッキーなどが入っていたであろう缶、パイプの組み立て式の棚、埃っぽい部屋から鉄をかき集める。全く終わりの見えない作業をひたすらに、遅れて到着した社員も交え繰り返す。

社員から休憩時間だと告げられたときには全身のあらゆる筋繊維が引きちぎれ悲鳴をあげていた。あと数分でも遅かったら五階から、もしくはこの仕事から飛ぼうと決心するほどには体と頭は憔悴していた。

五階に置いてある荷物を取りに、再び階段を上がり廊下を通り押入れのある奥の部屋に向かう。

さっきよりかは片付けられた部屋に、開け放たれた窓から柔らかい空気が流れ込んできていた。鞄から温くなったポカリスエットを出して、飲み干す。ふと足元に白い箱が重ねられている事に気がついたが、何の箱なのかわからずよくよく見ると、魚を運搬する時に使われるような発泡スチロール製の箱であることがわかった。上に重ねられた方の箱は大きく傾いていて中が見えない。空になったペットボトルを片手になんの気なしに発泡スチロールの箱を覗く。

傾いた発泡スチロールの角にはべっとりとした血溜まりがあった。反射的に大きくのけぞり、埃のついた作業服で口と鼻を覆うも、部屋の光を静かに吸い上げる血溜まりのどす黒さから目を逸らす事ができなかった。

きっと魚のものであるのだろうが、この部屋の異常性を鑑みると、否定できないもう一つの可能性に先程の温いポカリスエットが胃のなかで泡立つ。

悲惨なニュースを興味本位で読んでしまった時のような後悔を抱き階下に降りると、待ち構えていたKに休憩に誘われ、社員達とアパートのもとを離れた。

少し先を急いでいる様子で歩いているKを追いかける。

出会った時から作業の間、温厚だった派遣の男が突然

「なんだよあの社員信じられねぇっっっっっ!!」

と腹から叫ぶ、と同時に見た事のないサイズの痰を道路に吐き捨てた。その突発的な言動にも勿論驚いたが、吐き捨てられ宙を舞うその痰のサイズ、その白さに何よりも驚いた。到底人間から発射された痰だとは思えない白さ、宙を舞うさなか自由に流転し形を変える痰は重力に負けて落ちているのではなく自身の意思で弧を描いている高尚さがあった。

また私は空中で一瞬、完璧な球形になった痰をこの目に収めた。

信じられないかもしれないがそれは間違いなく完璧な球形だった。

この瞬間を写真に収められていたら、国展に選ばれた学友に認めて貰えたかもしれない。

痰を少し離れた場所で発射したKは、踵を返し近づいてきて、近くの駐車場に自分の車が停めてあるからそこで涼もうと提案してきた。

ついさっき知り合い、現在感情的になっているこの男の車に乗り込むのは小心者の自分でなくとも躊躇するだろう。

飯を買う為コンビニに行くから遠慮する、と言おうとしたその時、思考を読まれたのか

「いやっこれは飯食ったら後半の作業絶対吐きますよこれっっ。」

と先手を打たれてしまった。

人の話は聞かないくせに、人の思考は読むのかと腹立たしくなった。

返事を聞かず歩いて行くKにどうすればいいかわからず、仕方なく早くも筋肉痛の予兆の現れた体を引きずり、着いていく。Kも作業がかなり堪えているようで、重い足取りでスマホを回転させながらあっちだこっちだと、暫く一緒に街を彷徨った。

住宅街にぽつんとある駐車場に着くと「この車。」と道路側に停められた軽自動車に案内された。軽自動車の各所が光り、ドアの鍵が開く音がする。

「乗っていいっすよ。」

早くも半身を車に入れ込んでいるKが自動車の側面で突っ立ってる自分に声をかける。

私は助手席のドアを開ける。

後部座席に誰もいない事を一応確認して座席に座り、頭を最小限動かさずに視線だけで車内を探訪する。

定着したタバコの香り、干されたタオル、シミがつき尻の形に窪んでいるシートなどからは車というよりか部屋に近い雰囲気を感じた。

「荷物、適当に置いちゃってください。」

抱えていた荷物を足元のスペースに詰める。

知り合って数時間共に働いただけの他人の車に乗る事の危険性を模索していたが、両方の窓が開き、勢いよくクーラーから飛び出してきた冷気に体を包まれた瞬間、先ほどの労働の疲労が思い出したかのように体にのしかかってきて、少しぐらい休んでもいいだろうと心変わりした。

「全然席とか倒しちゃって。」

ドアと座席の隙間を手で探り、レバーを操作し座席を少し倒す。

気を遣ってくれているはずなのに、先程から命令されたかのように体が言葉の通り動いている。

大きく開いている窓から、クーラーの冷気に押し出される停滞していた車内の空気。

Kがタバコの煙を外に吐き、吸い殻を窓から駐車場に落とすのが見える。

前方の一軒家では、公然猥褻になりかねない姿の老人が庭の植物に水をやっている。

Kは社員の悪口をしばらく話していた。要領が悪いだとか、俺の方が上手くこなせるやら、派遣をぞんざいに扱いすぎだとか。

会話の合間に挟まる喫煙は読点と句点の役割を交互に演じていた。

大してまともな相槌を打っていないが、滔々と話は進んでいく。

しばらくするとニコチンが全身に回ったのか、ひとしきり悪口を吐き終わりスッキリしたのか、だんだんと話のペースが落ちてきた。

会話の間を縫うようにクーラーの轟音が響き、沈黙を強調させる。

会話の空白が目立ってきた頃、Kが身の上話を始めた。

Kは、介護の現場で働いていたのだが、コロナが直撃し仕事が限られるようになりさらに、仕事自体を削減され生活が立ち行かなくなった為、介護の仕事のない日はこうして派遣の仕事をして、食い繋いでいるんだと語る。大学の春休みに半端な気持ちで派遣をしている自分と同じ時給なのが自分でもやるせなく、なんだか恥ずかしかった。Kは生活がかかっている、自分はいくらでも甘えようと思えば親に甘えられる、さっきまでのKの憤慨がとても妥当に思えてきた。

「ワクチンって打ちました?」

おやおや、なんだか不穏な質問が投げられたぞ。

「はい‥‥打ちました‥‥‥。」

「あれね、打たない方がいいっすよ。死者も出てますしね。打った後具合悪くなったり、痛くなったりしましたよね?」

「あぁぁ、確かに具合も悪くなりましたし、めっちゃ痛くなりました打ったところ。」

「ワクチンで儲かるのは企業ですからね、コンビニのご飯とか食べてますか?あれもダメっすね、何入ってるかわかんないっすもん。ちゃんとした情報を仕入れないとダメっすよ。」

Kはなぜか空いてる両方の窓を少しだけ閉めた。急に近くで機械音が鳴り、一瞬身が強張る。

「自分は医療の現場で働いてるんでわかるんですよ。マラリアとか、エボラも一緒っすよ。」

「あえぇ」

また窓が上がる、何がどうなるのかわからず、適当な相槌を打つ。心拍数が上がる、今まで前方に無力に投げ出されていた視線を若干右に動かし、視界の片隅にKを捉える。至極リラックスした表情と姿勢で運転席に座っているが、右手はドアのロックや窓の開閉を操作するボタン付近に置かれていた。

完全にこの窓が閉まった時自分はどうなってしまうのだろうか、こんな思いをするぐらいならコンビニだったり飲食みたいなチェーン店におとなしく面接を受けに行けばよかった。ダッシュボードで男の使っていたタオルが日光を吸収している、不自然なぐらい光っているタオルは我々の休憩が終わるのを待っている。

Kがワクチンや外国の企業の真の目的について力説するたびに、車の窓が閉まっていく。話が一区切りする度に窓が音を立てて閉まるこのシステムはなんなのだ、無駄に緊張感がある。

コロナ禍のさなか受験期に突入した私は、藁にもすがる思いでワクチンを打ったのだ、その事が数年経った後、淵野辺の知らない男の軽自動車で問い詰められるとは、誰が予想できただろうか。

遂に完璧に窓が閉まり、冷えた空気が車内に充満し始める。外の音が聞こえなくなり、心理的にも閉鎖感を感じる。男は左のドアに鍵をかけたか?思い出せない‥‥‥。飲み込まれるような緊張感が走る。逃げるなら荷物は全て置いていく。

完全に締め切られた車内でもKの正しい情報の説教が続く。

全身の筋肉が強張ったまま、時間が過ぎていく。

張り詰めた緊張感が途端に弛緩したのは、Kが近寄ってきた休憩時間に気がついた時だった。

特に何も起こらなかったことに胸を撫で下ろし、同時に疑い過ぎたなと申し訳なくなった。

Kの社員の愚痴を聞きながら、再び現場に戻った。

後半の作業はさらに酷になる、五階で社員が袋に詰めたゴミを我々派遣二人で、五階から二階の踊り場まで運び、そこからアパートの下に停まっているトラックの荷台に投げ込む、この作業の繰り返しが永遠に続く。

エレベーターのないアパートを何往復もするのは前半の作業で削られた体にさらなる負荷をかけた。

繰り返しの肉体労働に発狂するのを抑え、朦朧としたまま2階から5階に向かったある時、部屋の奥の暗がりから埃を被った社員がヌッと出てきて、ゴミ袋に鷲掴みにしている神棚を無造作に入れる姿を見た。その瞬間自分はここで何らかの原因で死ぬのだと、この倫理観のない社員もろとも死ぬのだと本気で思った。時間に遅れてきて、派遣の我々には階段の往復を強いる、平気で神棚を鷲掴みにする。当然のように電気が通っていない玄関は外からの光を私が遮っている為暗く、ゴミ袋の中の神棚は正気を失った様にゴミ袋に沈んでいた。

ゴム手袋の隙間からは蒸れた汗の匂いが立ち込める、もうすでに見慣れたサビだらけの螺旋階段、埃を被った郵便受け、階下では自転車に乗った老人が街を縫うように自転車で移動している。マスクの中はむせかえるような暑さだがこの埃では外す気にはならない。

作業が全くの終わりを見せないまま、契約していた時間が近づいてきた。

もう少しの辛抱だと、鈍い脳みそで考えているとKが近づいてきて、

「絶対残業を頼んできますよ、残んなくていいですからね、帰りましょう早く。」

と早口で言って、また作業に戻って行った。

運べと言われたゴミ袋は運び終え、アパートの裏に溜めてあったゴミたちもトラックに積み込み終わった。運搬用のトラックがパンパンになっているのを見て、達成感を少し感じた。

明日も作業があるので、暇だったらぜひ申し込んでくださいと、五階で作業していた社員に言われたが、曖昧な返事で濁した。

アパートの脇に置いていた荷物がゴミと間違えられると困るので、他の場所に移動させていると社員の一人が、「何あいつ帰ろうとしてるの。あいつあいつ。」と他の社員と笑っているのが聞こえた。

これ以上誤解されぬよう鞄を早くどこかに移そうとしていると、その社員が近づいてきて、「帰るんすか?」と威圧的に尋ねてきた。身長は低いが、作業服の上からも、この仕事で培った筋肉が感じ取れた。

「荷物を移動させようとしてただけです‥‥。」

消え入るような声で伝える。惨めだった。

こんな威圧的な態度は彼の生来のものもあるのだろうが、私の派遣という立場もそれを助長していると思う。簡単に申し込める分、そこまでの責任感を持たずに作業に参加し、途中で飛んだりサボったりする輩が多数いるのだろう、実際この日も三人での作業のはずだったのだが一人飛んでいる。疑り深い社員と、ワクチンに懐疑的な同僚に板挟みにされるという、カオスな職場に心底辟易した。

一刻も早く家に帰りたい。

よくわからない紙にフルネームと住所を書いた後、少し多めに今日の分の給料を手渡され解放された。金を受け取るとKは軽い挨拶を交わしただけで、そそくさと帰ってしまった。饒舌なあの男に食事にでも誘われたらどうしようなどという考えは杞憂に終わり、去り際は淡白な事に寂しさを抱いた。

Kと別れ、淵野辺駅まで来た道をなぞる。

駅のホームで学校帰りの高校生のグループに遭遇した時、じろじろ見られている事に気がつき、そんなに作業服を着た人間が珍しいか、と憤り殴りかかってやろうかと思った。が自分の作業服が運んだ家具の埃などによって尋常ではない汚れ方をしていることに気がついて、そりゃジロジロ見るよなと納得が行った。

最寄りで下車し改札を抜けたところで、神棚を無碍に扱った祟りがなかなか身に降りかからない事に安心し、今日もらった給料をもう一度確認する。これでもう暫くは生活を紡げると数枚のお札を握り締めしみじみしていたが、今朝の交通費や飯代、作業着代の負債と以前からあった負債を考えると、プラスマイナス0円だということに気がついた。

今日は負債を返し作業着を買うために働いたのか、それもあんなに身を削って。

今頃、Kは米米クラブのCDを聴きながら、軽自動車を走らせていることだろう。

読者諸君は泡銭のために、死が蔓延する淵野辺上空で、痰吐く反ワクと、ひたすらにリサイクル品という名のゴミを片付ける覚悟はあるか?

自分の場合極端に運が悪かっただけというのは勿論ある。しかし早急に人手が欲しい人間と早急にお金が欲しい人間のベン図が重なる場所には、それなりのリスクが当然発生するということは受験という束縛から解放され、バイトを始めるであろう諸君は肝に銘じて欲しい。

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