はじめに
「エアリズム」というのを知っているだろうか?
私はつい最近までこのエアリズムというのを知らなかった。
美術大学の建築学科に属しているのにも関わらず、エアリズムについての造詣を全く持ち合わせていなかった自分を恥じているし、反省すらしている。
初めてエアリズムに触れたのは数週間前、講義が終わった私は今にも決壊しそうな曇天から逃げるように大学を後にし、部屋で特段興味があるわけでもないバラエティー番組を見ていた。
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「もうやめてくださいよぉ~~!!!」
相方にプライベートの失態を暴露された芸人が嬉しそうに雛壇から飛翔すると、一連の流れを聞いていた周りの芸人達も拍手をしながら歯を見せる。大袈裟な歓声の中、ゲストの俳優は早く家に帰って酸化防止剤の入ったワインを不倫相手と飲みたいと考えながらお淑やかに笑う。
低気圧の下、空虚な頭を擡げる私はバラエティー番組という名に恥じないバラエティーに大変満足していたし、テレビの中の芸能人も大変充足しているように思えた。
笑いと拍手が収束すると、司会がゲスト俳優の生い立ちについて脱線した話を戻す。
近日公開の家族愛を描いた全く知らない映画の主演を務めた全く知らない俳優に投げかけられるどうでもいい質問に興味はなかったので、チャンネルを変えようとリモコンをテレビに向けたその時、差し込む僅かな光と、部屋に敷衍する闇が作り出す灰色のグラデーションを背景に、息を呑むほど神秘的な女性が浮遊している映像が37インチのテレビに映し出された。
発射寸前の赤外線をグッと堪える。
程よく弛緩しながら重力に逆らう長い手足やよく通った鼻筋は、北欧の神話に出てくるような神々の造形を想起させる。しかしその無力な姿勢や穏やかな表情とは裏腹に、目を逸らすことのできない張り詰めたオーラを美しく停滞した時間の中に垂れ流している。
無意識に伸ばされる背筋。
この世に存在しているのか疑ってしまう程の空間と女性、そのどちらもが、お互いを全く侵食することなくその空間の調和を取り合っている。
溢れ出る静謐さに見惚れていると「エアリズム」と言う文字が一瞬だけ浮かび上がり、テレビは再び芸能人を長方形に切り抜き始めた。
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あっという間に胸の中を衝動的な胸騒ぎが充填し、居ても立っても居られなくなった。今まで纏っていた膜を脱ぎ捨てられたような、重く冷たい水面を穿ち新鮮な空気を吸い込んだような開放感。
20年前、お茶の水の病院で起こった出産が一回目の誕生ならば、これが二回目の誕生なのだと全身の細胞が確信した。
雛壇で繰り広げられる芸人の口喧嘩も、秀逸なエピソードトークもゲスト俳優の生い立ちについての興味深い話も頭をすり抜けて行き代わりに私のテレビを占領したあの神秘的な空間と女性の事、そして「エアリズム」の事がグルグルと渦巻いていた。
この衝撃的な出会いから数週間が経ち、今私の中ではこの「エアリズム」についての新時代を担う革命的思想とその背景、そしてこれからの未来への展望についての考察が確立し始めている。
今回はこの革新的思想体系「エアリズム」について私の見解を述べたいと思う。
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第一章 エアリズムの真意
エアリズムとは何なのか?という疑問に、最も表層にある「エアリズム」という言葉からアプローチしていきたいと思う。
エアリズムは英語では「AIRism」と表記し、このことから「AIR」という名詞と、その後に続く接尾語の「-ism」から成り立つ語であり、modernism、cubism、capitalism、surrealismなどと同じく何らかの思想体系や主義、特性を意味する言葉である事は容易に推察できると思う。
そこでエアリズムを直訳してみると、「空気主義」「空気思想体系」などといった何やら曖昧な言葉が誕生する。
ではこの「空気主義」「空気思想体系」とは何なのだろうか?
エアリズムの全貌を明かすには、ここにおける「空気」が何を指すのかを理解しなければいけない。
勿論ここで言う「空気」が我々を取り囲む「空気」のことなのは間違いないのだが、エアリズムを主張する人々はその「空気」の持つ「特徴」に着目しているという点が大切になってくる。
エアリズムにおける「空気」が持つ特徴とは何なのか?について単刀直入に答えを出すと、「資本主義の全てを資本化する波から逃れ、市場理念から逸脱している。」ということである。
少し話が飛躍するが経済、市場の話をしよう。
市場というのは扱うモノの希少性が担保されていないと成り立たない、逆に希少性が担保されていないモノを扱っているのでは市場は機能しない。つまり、市場にとって最も重要なのは扱うモノの希少性であると言える。万人が手に入れようと思って手に入れられるものを資本として、投資の対象として見る者はいないと言う単純な話だ。
しかし、成熟し成長した資本主義は増加した人口や進化したテクノロジーによって大体のものを素早く正確に大量に生産することが可能になり、当然の帰結として市場にあらゆるモノが溢れ、大事な大事な希少性が脅かされてしまったのだ。
そのような事態を受け資本主義はどうしたか?
自分たちでブランド化や供給調整などを駆使し人口的に希少性を生産し始めたのである。
そのことによって市場からモノが溢れ落ちることはなくなり、永遠の市場拡大と人々を無限の消費行動に誘導することに成功したのだ。
上記の資本主義の特性は、ありふれてしまったモノに再び希少性を与えるということであったが、ありふれていたモノに希少性を与えるというのも資本主義の特性である。水は本来ありふれていたがペットボトルに詰めて移動を重ね都心のコンビニに出現することにより、本来ある場所から離れ希少性が生ずる。
つまり何が言いたいのかというと「この世に資本主義の資本化を逃れ、市場からの逸脱が可能なモノというのはそうそうに存在しない」ということである。同じ機能の製品をいくら作ったとしても、デザインを変えたり、ブランドのイメージを付加したり、広告に流行りの女優を起用してみたりして、創意工夫で希少性が添付される。
しかし、そんな資本主義の資本化の波から逃れているモノも当然存在する。
それがエアリズム論者のいう「空気」なのである。
空気というのは普遍的で独占することができず、供給を調節することもできないし、勿論ブランド化もすることができない、つまり市場における希少性というのが全くの皆無なのである。
成熟し世界を飲み込む資本主義の資本化の力というのは凄まじく、あらゆるモノを資本化してしまう。そんな資本化の波からするりと抜け出しているモノこそが「空気」なのである。
エアリズムはこの空気の特徴を主義として掲げている。
つまりエアリズムとは、これからの彫刻や思想、文学に建築に絵画、それら創作物全ての目指すべき場所は資本主義の市場理念の手の届かない場所でなければいけない、という主張なのである。
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第二章 エアリズムの背景
ではなぜエアリズム論者はこのような主義主張を掲げるのか?
この疑問に対して、地球の限界を超えてまでも成長を追い求める資本主義に対し疑問を呈する若者が増加していることや、度々帝国主義的生活様式が批判され脱成長論などが唱えられる近年において、このような資本主義に懐疑的で資本主義からの脱却を望むような思想が出てくるのは必然である。というのが一番安易な答えだと思う。
だがこのエアリズムにとっての資本主義の信頼の揺らぎというのは、イデオロギーの地盤となったのではなく、急速な成長を促した肥料であると私は考えている。
エアリズムの端緒は1920年代頃にまで遡ることで見えてくる。
モダニズム全盛期、この時代の芸術家達が新技法や新思想などを駆使し誰も見たことがない作品を追い求めていたのは、新しい技術や概念は価値判断が難しく、価値が決定するまでにそれなりの時間がかかり、その期間は作品が商品として扱われる事を避けることが可能だったから。と経済の視点からモダニズムを解説する事ができるそうだ。つまり自分の作品を商品として扱われる事に根底で嫌気を感じていた芸術家が新しいモノやコトを追い求めることによって、資本化から逃れようとしていたのだ。
この資本化からの逃亡というのは紛れもなくエアリズムの基本的思想である。つまりエアリズム的思想の端緒というのはモダニズムの時代から垣間見る事ができるのだ。しかしモダニズムではその思想というのが私的な面でしか構成されず、内面にとどまって終わったのだ。だが彼らの考えというのが息絶えたわけではなく、脈絡と様々なジャンルで受け継がれて現在に至り、そんな私的な欲求が、資本主義の信頼の揺るぎ、経済格差、環境問題などを機敏に察知し一気に公的なものとして長年の時を得て開花し、思想として、また主義として完成したのがエアリズムであると私は考えている。
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最終章 エアリズムの行方
これまでのエアリズム思想を踏まえてみると、エアリズムとのはじめての出会いであったテレビの広告というのが、いかに特異で重大なコトだったのかがわかってくるだろう。
エアリズムにとって、本来の価値を超えてまでも俳優や演出を駆使し、消費者達に対し過剰な消費を促すコマーシャルというのは有害なものに違いない。そんなコマーシャルの中にあえてエアリズム論者は突入し、宣伝を打ったのだ。
ウィットとアイロニーに富んでいて、クレバーでクレイジー。挑戦的で野心に満ち溢れている。
エアリズム論者の根底には連綿と受け継がれてきた私的な欲求が渦巻いている。それらがこうして我々の眼前に具現化し噴出する様子を目の当たりにすると、恐れすら感じる。
今後のエアリズムというのは様々なジャンルに進出していき、市場理念を逸脱した空気や太陽光のような文学や建築、絵画、彫刻を次々と打ち立てていくことだろう。
エアリズム絵画は食料問題を解決し、エアリズム彫刻は経済格差を是正し、エアリズム建築は人口問題にそっとピリオドを打つ。
資本主義の作り出す人工的希少性に我々は踊らされることを辞め、インスタグラムを開き他人に嫉妬しては消費を繰り返すという果てしない行為は廃れ、山のようなPDFデータを印刷しろと社員に命じるSDGsを掲げているはずの会社は倒産する。
コンビニでビニール傘を盗まれることは無くなって、YouTubeからは出会い系アプリと脱毛の広告が抹殺され、どの天気予報アプリを最も信頼すればいいのかわかる、若者は活気を取り戻し、虚無から脱出する。
ああぁエアリズム、、、、エアリズム、エアリズム、、、、エアリズム。
全てを是正し行進せよ。
これからの多摩美術大学のカリキュラムにはエアリズム概論、エアリズム論などが誕生し、頻繁にシンポジウムが開かれる。諸君の画塾においても若きエアリズム作家教育のため熱心な教育が行われ、入試問題もきっと大きな変貌を遂げるだろう。
そして諸君や私のような今を生きる若者はエアリズム作家として新時代を担う事になっていくのだ!!
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追記
この前大学に行った。友達のパンツを見た。エアリズムと書いてあった。
素材演習という授業のために作業着に着替えてるときの事だった。
「君もエアリズム論者なのか!!確かに素晴らしい思想体系ではあるがパンツにまで印刷するとは熱心な論者なんだな。今から授業をサボって飯でも食いながら今後の展望を語り合おうじゃないか!」と話しかけた。しかし、とても怪訝な顔をして帽子の後ろからはみ出した襟足をふわふわさせながら何処かへ行ってしまった。
調べてみるとエアリズムってのは下着のことらしいな。
そこに資本主義からの脱却も芸術家達の思想も、建築も絵画も彫刻も文学もない。
あるのは素晴らしい肌触りと通気性だ。
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それじゃあ俺の考えたエアリズムというのはなんだ?
最近は、季節の変わり目のせいなのか体調を崩したり情緒が不安定になる。
人間、冬になると人肌が恋しくなったり鬱々したりするのはなぜか知っているか?
冬というのは日照時間が短くなる。それっていうのはつまり大切な酸素を作り出す植物の生存の危機なんだよ。それを人間は本能で察知して、意識の底で不安になるんだよ。だから人間は冬になると人肌が恋しくなって、頭がおかしくなって、メルティーキッスを空から降らせたりし始めるんだよ。
「教え子からいつ刺されても大丈夫なように背中に鉄板を仕込んでいる。」と豪語する予備校の化学教師が力説していた。
どこで間違えたのか?という質問に対しては容易に答えを出すことができるが、なぜ間違えたのかという問いに俺は考えあぐねてしまう。
静謐な空間を悠々自適に浮遊するあの女性のことをふと思い出した。
しなやかな手足、陶器のような素肌、彼女は確かにあそこで静かに浮遊していたし、今でもきっと浮遊している。
身体中に撮影用のロープを巻き付け、力説すればセクハラと認められるような気持ちの悪い色のグリーンバックを背景に、照射されたら半径二メートルに内臓をきれいにぶちまける宇宙兵器のような仰々しいカメラを何台も向けられながら、したり顔で浮遊している。
今朝から家の前の通りが騒がしい。何台も自動車が停まっているし、道路にも何人も人がいて電話をしながら俺の部屋を見ている。
「いいから俺を見ろ、心配いらない。これからは全て良くなる。出会いのタイミングが悪かったんだ。」